バプテスマのこがね

こんにちは。このブログを読みに来てくれてありがとうございます。私は、イエス=キリストを信じるクリスチャンです。私は、憧れの人イエスのように、優しく生きたいと強く願っています。そんな私が日々思ったこと、感じたことを書いています。

どうしたら「我らに罪をおかすものを我らがゆるす」ことができるのか(後編)

 前編の記事では,私達に罪をおかすものをゆるすべきだ,とイエスが教えられたことをお話ししました。有名な「主の祈り」の中にも,「我らに罪をおかすものを我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」という言葉があります。しかしそうは言っても,心に傷がつけられた時には,それを簡単にゆるすことは難しいと思います。私も「こうしなさい」と偉そうに命令することは出来ません。私自身隣人の罪を完全にゆるすことが出来ているわけではありません。ですが,イエスが「隣人の罪をゆるしてあげなさい」と言っているからには,どうすれば罪をゆるすことが出来るのか考えるのが正しいことなのだろうと思います。

 前編記事はこちらから!

 

evahikaru.hatenablog.com

 

 さて,「罪」と一口に言っても様々なものがあります。ここでは皆さまが罪をゆるすことができるように,その手助けとなるような考え方を提示できればいいなと思っています。そこで,いくつかの例を挙げて考えます。

 

  • 物を盗まれた場合

 例えば,私が財布を盗まれたとします。中には,1万円が入っていたので,大きな損害です。しかし,私は財布を盗んだ人に,感謝したいと思います。なぜなら,これ以上「財布を盗まれるかもしれない」と心配する必要がなくなったからです。1万円で心の平安が買えれば,安いものです…

 「そんなのは詭弁だ!」という声が聞こえてきそうです(笑)上述したような考え方もありますが,そうは言っても,お金を取られたら腹が立ちますよね?むしろその方が自然な反応です。ですが,良く考えてみてください。お金(または所有物)というのは,本当にあなたの物なのでしょうか?「名前が書いてないなら,誰の物でもない!」とは,小学生でも思いつきそうな理屈ですが,実際,便宜上今あなたの手元にあるだけで,本当にあなたの物であるかは疑わしいと思います。

 「コイツ何言ってんだ」と思われたかもしれません。少し話をややこしくしてしまったので,結論をズバリ申し上げます。キリスト者(キリストを信じる者)は,地上にあるすべての物の所有権が,私達の信じている天地創造の神にあることを信じます。つまり,そもそも私は,「私の」物など何一つ持っていないのです!これでは,物を盗まれたところで怒りようがありませんね。そもそも私は神様から物を使わせていただいている立場なので,「私の物が盗まれた」という感情も原理的に発生しないことになります。言い換えると,そもそも隣人に罪を犯されていない,という考え方です。

 

  • 体を傷つけられた場合

体を傷つけられるのは,交通事故で怪我をさせられる例などがあると思います。しかし,これも「そもそも私の体は私のものではない」という考え方に立てば,怒りは湧かなくなると思います。とはいえ,やっぱり痛いのは嫌ですよね?💦怪我をした時には,クリスチャンの知り合いの方に祈ってもらいましょう!ある研究によると,怪我が早く治るように祈ってもらった人たちの方が,祈ってもらえなかった人よりも早く怪我が治ったそうです。日本には千羽鶴という文化もありますが,健康が回復することを願ってくれる人がいるというのは,嬉しいことですよね(^^)

 

  • 悪口を言われた場合

 悪口を言われた場合にはどうすればいいでしょうか?悪口を言われると,へこみますよね?私だって悲しいです😢 ですが,そのことで怒ったり,隣人を恨んだりする必要はありません!なぜなら,天の父なる神様が私達を愛してくださっていることを私たちは知っているからです。神の愛は,見返りを求めない無条件の愛(アガペー)です。私はそのお方を知っていますから,悪口を言われても気にしません。いや,正確には出来るだけ気にしないようにしています。いつの日か,隣人に何をされても,完全にゆるすことが出来る人になりたいものです。

 

最後に,聖書の御言葉を少し引用します。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

 (ペトロの手紙一3章9節)