(※この記事は、5月11日に更新しました。)
こんにちは。今日も私のブログを読みに来てくださり、ありがとうございます。
今回は、こちらの記事の続きとなります。
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さて、前回は、律法学者(今で言うところの道徳の先生)が、イエスの弟子を咎め、それに対してイエス様が反論した時に使われたのが、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉だという話をしました。
この言葉を私が好きなのは、聖書の神様が、
「(隣人への)憐れみ」を求める神様だということが、一目見て、すぐ分かる御言葉だからです。
聖書の神様は、裁きの神様でしょうか?
確かに、そのような一面もありますが、私にとっては、『神様より憐れみ深い方はいない‼️』
と思えるほど、憐れみそのもので在られるお方です。
『あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださるからである。』(マタイによる福音書5:45)
そう。聖書の神様、イエス・キリストの父なる神様は、人を善人であるとか悪人であると
差別せず、誰に対しても憐れみ深い方なのです‼️
もちろん、悪人が悪いことをすれば、それ相応の報いを受けることはありますが、悪いことをしたとしても悔い改めれば、いついかなる時も許してくださる、という意味で、その憐れみは限りないと言えます。
だから、『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』という御言葉が、預言者※ を通して、与えられたのでした。
古代イスラエルにおいて、「神は怒りを発する神」であると考え、なだめの捧げ物として、生贄が多く必要だという考え方をする人々がいました。
それ逆に言えば、『生贄さえ捧げれば、神は怒りの矛を収めるだろう』という楽観的な考えをしていた、ということになります。
しかし、それは大きな誤解でした。
イスラエルの神様は、彼らの生贄の少なさを怒っていたのではありません。
イスラエルの人々の中で権力ある者たちが、自らの富や名声を追い求めるばかりで、貧しい人、病める人など、社会的に弱い立場のある人々を虐げ、
彼らを憐れまなかったことに対して、
怒りを発していたのでした。
『主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。
彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。』
(アモス書2:6-7)
イエス=キリストという人は、律法学者が(形式上は)律法を遵守していながらも、最も大切である主の教え「隣人を憐れむこと(愛すること)」が抜けていたことが分かっていました。
だから、律法(旧約聖書)のアモス書の言葉を引用して、律法学者を批判したのでした。
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さて、今回はここまでとします。
ここまでお読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m
これを読んでくださった皆様に、神様の豊かな祝福のあらんことを祈ります🛐
God bless you♡