バプテスマのこがね

こんにちは。このブログを読みに来てくれてありがとうございます。私は、イエス=キリストを信じるクリスチャンです。私は、憧れの人イエスのように、優しく生きたいと強く願っています。そんな私が日々思ったこと、感じたことを書いています。

『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない。』4-❷ (私の好きな聖書の御言葉)

  (※この記事は、5月11日に更新しました。)

  こんにちは。今日も私のブログを読みに来てくださり、ありがとうございます。

 

  今回は、こちらの記事の続きとなります。

 

 

evahikaru.hatenablog.com

 

 

 

  こちらをまだお読みでない方は、ぜひこちらの記事も読んでください😊

 

  さて、前回は、律法学者(今で言うところの道徳の先生)が、イエスの弟子を咎め、それに対してイエス様が反論した時に使われたのが、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉だという話をしました。

 

  この言葉を私が好きなのは、聖書の神様が、

「(隣人への)憐れみ」を求める神様だということが、一目見て、すぐ分かる御言葉だからです。

 

  聖書の神様は、裁きの神様でしょうか?

  確かに、そのような一面もありますが、私にとっては、『神様より憐れみ深い方はいない‼️』

と思えるほど、憐れみそのもので在られるお方です。

 

あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださるからである。』(マタイによる福音書5:45)

 

  そう。聖書の神様、イエス・キリストの父なる神様は、人を善人であるとか悪人であると

差別せず、誰に対しても憐れみ深い方なのです‼️

 

  もちろん、悪人が悪いことをすれば、それ相応の報いを受けることはありますが、悪いことをしたとしても悔い改めれば、いついかなる時も許してくださる、という意味で、その憐れみは限りないと言えます。

 

  だから、『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』という御言葉が、預言者※ を通して、与えられたのでした。

 

  古代イスラエルにおいて、「神は怒りを発する神」であると考え、なだめの捧げ物として、生贄が多く必要だという考え方をする人々がいました。

 

  それ逆に言えば、『生贄さえ捧げれば、神は怒りの矛を収めるだろう』という楽観的な考えをしていた、ということになります。

 

  しかし、それは大きな誤解でした。

    

  イスラエルの神様は、彼らの生贄の少なさを怒っていたのではありません。

 

イスラエルの人々の中で権力ある者たちが、自らの富や名声を追い求めるばかりで、貧しい人、病める人など、社会的に弱い立場のある人々を虐げ、

彼らを憐れまなかったことに対して、

怒りを発していたのでした。

 

『主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。

  彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。』

(アモス書2:6-7)

 

  イエス=キリストという人は、律法学者が(形式上は)律法を遵守していながらも、最も大切である主の教え「隣人を憐れむこと(愛すること)」が抜けていたことが分かっていました。

  だから、律法(旧約聖書)のアモス書の言葉を引用して、律法学者を批判したのでした。

 

 

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  さて、今回はここまでとします。

  ここまでお読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

  これを読んでくださった皆様に、神様の豊かな祝福のあらんことを祈ります🛐

  God bless you♡