バプテスマのこがね

こんにちは。このブログを読みに来てくれてありがとうございます。私は、イエス=キリストを信じるクリスチャンです。私は、憧れの人イエスのように、優しく生きたいと強く願っています。そんな私が日々思ったこと、感じたことを書いています。

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』4-❶(私の好きな聖書の御言葉)

 こんばんは。お久しぶりです。また少しずつブログを更新していこうと思っています。これからは,2~3日に一回のペースで書いていこうと思っています(やるとは言っていない笑)まあ,楽しみにしていただける方は,楽しみにしていて欲しいです😊

 

 さて,今日ご紹介する聖書の言葉は,「マタイによる福音書」12章1-8節です。

「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、
エスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。そこで、イエスは言われた。 『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。(中略)安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、
《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。』(マタイによる福音書12:1-8)(中略は筆者による)」
(参考サイト:高崎裕士. “説教「わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない」”高崎裕士の永遠の生命のホームページ.説教「わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない」 (coocan.jp)
(2022.4.20)


 
 こちらの聖書個所のミソ(一番重要なところ)は,やはり
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というイエス様の引用した言葉だと思います。これは,旧約聖書のホセア書という書物の6章6節からの引用,と言われています(こちらの聖書個所についての詳細は,また別の記事でご紹介します)。

 イエス様が生きていた時代のイスラエルでは,ユダヤ人が先祖から代々受け継いできた「律法」というものを学び,その通りに生きることが大切だとされていました。律法とは,この通りに守って生きれば,神様の祝福が得られて幸せに生きられると考えられていた,ルールのことです。律法は,ユダヤ人(イスラエルに住んでいた民族)が神様から与えられていたものです。

 そして,ファリサイ派の人々は,律法を研究して,人々に教える立場の人々でした。今で言うところの,学校の「道徳」を専門で教える先生,と言えばイメージしやすいでしょうか?その立場の人々が,イエス様の弟子の行動を注意しました。「安息日は,労働をしてはならないと決められています。それなのに,麦の穂を摘むという労働をしている。」と咎めたのでした。それに対して,イエス様が反論する際に引かれた(引用した)のが,上の言葉でした。

 

 さて,かなりいい所まで来ましたが,今日はこれで終わりにします。続きは次回の記事に書きます。最後に一言お祈りします。

天の父なる神様。今日このブログに読者の方を導いてくださり,ありがとうございます。今回は,私の好きな箇所である「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という御言葉を紹介させていただきました。この御言葉を理解する上で前提となる背景について解説させていただきました。解説することを許してくださり,ありがとうございます。このブログを読んでくださった方の上に,神様からの豊かな祝福があることを祈ります。

このお祈りをイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン】

最後まで読んでくださって,ありがとうございました😊 God bless you♥