バプテスマのこがね

こんにちは。このブログを読みに来てくれてありがとうございます。私は、イエス=キリストを信じるクリスチャンです。私は、憧れの人イエスのように、優しく生きたいと強く願っています。そんな私が日々思ったこと、感じたことを書いています。

「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」~聖書は読者にも語り掛ける、ダブル・ミーニングの書物であるという話~

 (この記事は、2022年6月1日に更新しました。)

 

 こんばんは。今日も、私ヒカルが聖書を読んで、どのように感じたか、どのような信仰を持っているかを証(あかし)したいと思います。

 

 この記事を読んで分かるのは、『マタイによる福音書の「嵐を静める」というイエスのエピソードにどのような意味があるか』や『聖書が私たちに何を伝えようとしているか』が分かります。

 

【目次】

 

嵐を静めるイエス

 

 『エスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのか。風や湖でさえも従うでないか。」と言った。

(「マタイによる福音書」8章23-27節)

 

 この箇所は、なかなか不思議な箇所ですよね。初見の時(クリスチャンになる前)は、「嵐を静めたって、本当かなぁ?」と思ったのを今でも覚えています。しかし、私はあるきっかけでキリストを信じるようになりました*1

 

 それから、聖書をよく読むようになり、「聖書について少し知っている」という変なプライドが出来てしまったのでした。

 

 当時の私(大学1年生)はプライドの塊で、何かあるごとに他人と自分を比較して優劣をつけ、自分が勝っていると思うと他人を見下すような、少し性根が曲がったところがありました。

 

 しかし、そんな私の心をも、神様は全てご存知でした。

 

大学の礼拝で受けた衝撃

 

 そんな折、大学の礼拝に参加する機会がありました。私の大学はキリスト教主義の大学で、毎日朝10時半から11時まで礼拝を行っています。私は、その礼拝に参加したのです。

 

 うちの大学の礼拝堂はかなり豪華で、大きなパイプオルガンが置いてあって、そのパイプオルガンで讃美歌を演奏する、というスタイルでした。

 

 その時の私は、「俺は聖書を予習してこの箇所を知っている。他の奴は全然知らないでここに来ているのだろうなあ」と思って見下す、という悪い癖を発動していました。

(我ながら、性格悪いですね💦)

と、いうのも、私の大学はクリスチャンじゃない人も多く、(私もそうだったのですが)大学生になってから初めて礼拝に参加する人も多いのです。

 

 ちなみに、勘違いされている方もいるのですが、キリスト教の礼拝はクリスチャンではない方も参加できます。求めよ、さらば与えられん』という有名な聖句がありますが、神を求める人には、いつでも門戸を開いているのが、キリスト教の礼拝です。信者である、なしは関係がありません。

 

 『求めよ、さらば与えられん』という聖書の言葉について、こちらの記事で解説していますので、良ければこちらもご覧になってください。

 

 

evahikaru.hatenablog.com

 

 

ヒカル、「無知の知」を体験する

 

 しかし、そんな私の驕り(おごり)の心は、礼拝の説教を聞くことで打ち砕かれました。

 

 その内容はうろ覚えなのですが、確か「『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』というイエスの言葉は、直接的には船に乗っていた弟子に語り掛けられた言葉である。しかし、現代の「経済不況」や「災害」、「戦争」など、あらゆることに対して不安になりがちな私たちにも、イエスは語り掛けられておられるのだ。不安になる私たちでも、イエス様が共にいてくださることを信じることで、心に平安が得られる」という内容だったと思います。

 

 私は、イエスの『なぜ怖がるのか。』という言葉は、弟子に語り掛けられていた、という表面的な意味しか見ていませんでした。しかし、マタイの福音書と言うのは不思議な書物でして、イエス様は2000年後に生きる私たちにも直接語り掛けられているのですね。

 

 そのことを知らなかった(気付かなかった)私は、聖書を知っていると思っていて実は何も分かっていなかった自分を恥じました。

 

 まさに、ソクラテスの言葉を借りると、『無知(自分が何も知らなかったこと)の知(を知る)』の体験でした‼

 

エス様は、現代の私たちにも語り掛けている

 

 ということで、イエス様は、当時の弟子にだけ語り掛けるのではなく、彼を信じる者、慕い求める全ての人に対して、その言葉を発しておられる方なのでした。

 

 福音書を書いた人は、そんなことはイメージしていなかったのかもれませんが、イエス様は『天と地の一切の権能を授かっている』*2お方です。当然、過去、現在、未来の全てのことを知って治めておられる方でもあるので、エス様は2000年後の私たちに対しても、福音書を通して語り掛けられるお方なのですね。

 

 そのことを知って聖書を読むと、福音書に書かれた出来事も遠い過去の出来事ではなく、私たち自身に関係がある自分事、として親近感を持って読むことが出来ると思います。

 

おわりに

 

 ここまで読んでいただいてありがとうございました。

 

 このブログを読んでくださった方が、神様やイエス様のことを、より身近に感じてくださることを、祈ります。

 

 『恐れることはない。私はあなた方と共にいる』と語りかけてくださる主イエス・キリストの恵み、父なる神様の愛、聖霊の親しき

交わりとが、読者の皆様の上にありますように。

 

 アーメン♰ 

 

 

*1:エスが、私の救い主=キリストであることを信じるようになった、ということです

*2:「マタイによる福音書」28章18節より