バプテスマのこがね

こんにちは。このブログを読みに来てくれてありがとうございます。私は、イエス=キリストを信じるクリスチャンです。私は、憧れの人イエスのように、優しく生きたいと強く願っています。そんな私が日々思ったこと、感じたことを書いています。

生きていくうえで一番大切なことって何?~マルコによる福音書より~

 

『第1の掟はこれである。「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第2の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この2つにまさる掟はほかにない。』(マルコによる福音書12章29‐31)


これは,「最も大切な掟は何ですか?」という質問に対して,イエスがお答えになった言葉です。敬虔なクリスチャンの方は,暗記されている方も多いと思いますが,新約聖書の中でもとりわけ重要視されている箇所です。

 


この言葉にはキリスト教の2つの重要な教義が含まれています。それは,「神への愛」と,「隣人愛」です。

 

2つとも愛が含まれていますから,キリスト教では『愛』が重要視されており,キリスト教は愛の宗教と言えるでしょう。

 


歴史的には「隣人愛」の方が重視されてきたようです。「左の頬を打たれたら,右の頬をも差し出せ」も,隣人愛の形の1種ですね。

 

キリスト教とは,「隣人愛」の宗教だと一般的にも,またクリスチャンにも思われていると思います。しかし,隣人を自分のように愛するのも重要な掟ですが,第一の掟も重要です。第一の掟は何でしょうか?そうです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」でしたね?

 

私たちは,まず全身全霊で神を愛さなければならないし,神を愛するから,隣人をも愛することが出来るのです。

 

 

さて,キリスト教では伝統的に愛は二つの種類があるとされてきました。それは,「エロース」と「アガペー」の二つです。

 

この二つは対照的であり,エロースは見返りを求める愛,アガペーは与える愛です。エロースは人間的な愛であり,アガペーは見返りを求めない無償の愛,と解釈されてきました。

 

「最も大切な掟」の聖書箇所では二種類の愛が出てきますが,それはどちらの愛だと解釈するべきでしょうか?

 

まず,隣人愛については,「隣人を自分のように愛する」には,自分のものを隣人に与える必要がありますよね?

 

つまり,第二の掟は「アガペー」と言えます。この論理は分かりやすいと思います。

 

問題は第一の掟「全身全霊であなたの神を愛しなさい」です。私たちは,神様にも見返りを求めずに,無償の愛を捧げるべきなのでしょうか?

 

この世界は,人々が様々なものを求めている,つまりエロースで溢れているように感じられます。それはそれで,否定されるべきものではありません。エロースも,アガペーも,神様がお創りになったもので,必要なものです。

 

しかし,アガペーはエロースよりも難易度が高く,高尚(こうしょう)な愛です。そして,歴史的にキリスト教会は「エロース」を軽視してきました。

 

エロースではなく,アガペー,与える愛を神様と隣人に注ぎなさい,と説いてきました。一見それは正しいことを言っているように見えます。

 

しかし,人間の愛には限界があります。「左の頬を打たれたら,右の頬を差し出す」ことが実際に出来るのは,クリスチャンの中でも数が相当限られていると思います。正直,私も出来る自信がありません(笑)

 

では,どうすればいいのでしょうか?イエスの言うことは凄いけど,ただの理想論だと切り捨ててしまってよいのでしょうか?私は,そうではないと思います。

 

 

私たちは,隣人を自分のように愛することが出来ないのであれば,神様にそれを求めるべきです。そう,私の見解としては,第一の掟とは「エロース」の愛なのです。

 


特に真面目なクリスチャンの方に多いのですが,自分の至らなさや罪深さに気づいたときには,自分を責めてしまうことがあります。

 

しかし,私たちの罪は十字架の犠牲によって,全て赦されています。もはや誰も,私たちを裁くことも責め立てることも出来ないのです。それは,自分自身についてもそうです。私たちは,自分自身を責める必要はありません。その代りに,自分の罪に気づいたときには,神様に,その心を清めてくださるようにお祈りするべきです。

 

 

そのために,イエスという方は,自らの命を捨て,十字架にかかって死んでくださったのですから。


最後に,一言お祈り(神様とお話)します。
天の父なる神様 あなたの深い恵みに感謝します。
私たちは,罪によってその心が汚れて(けがれて)います。そのせいで最も大事な掟の一つである「隣人を自分のように愛する」ことが難しくなってしまいました。しかし,神様は憐れみ深い方であられます。私たちを汚れたものとして見捨てることなく,それどころか,御子(みこ)イエスの犠牲によって,神様の子となる資格と,永遠の命まで頂くことができました。その恩寵(おんちょう)に深く感謝申し上げます。ですが,私たちは有限な存在です。私たちの心や寿命には限りがあり,隣人に十分に愛せる分の愛を持っていません。ですから,まずは,神様,私たちの心に足りないもの,欠けているものを神様の深く,素晴らしい愛によって満たしてください。そうすればきっと,私たちは,私たちの隣人を自分のように愛することが出来るようになります。
このお祈りをイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!